工藤興市の触れ合いブログ

常に出逢いを求めて街を彷徨っている工藤興市が、感動し涙した方々の報告書

工藤興市エッセイ「僕は神じゃないから、人間だから」抜粋・ある大富豪から1000万の値がついた作品


【現在5】

201号室から聞こえる。

「すいません、皆様。私が悪いばっかりにご迷惑をおかけしました。そんな私を許してください。これからもどうかよろしくお願いします。」
地下には亡くなった老人の荷物が山積みされ、この人が好きだったんだろう小さな日本人形が、寂しく笑ってる。

218号室の老人は、100歳を越え、声にならない声で、顔を拭いている僕に手を合わせて言う。

「あ、りが、と、う。」

廊下を徘徊する老女の手には、自分のウンコが握られてる。老女の目は怒りと悲しみをまとい、僕達に生き続ける事の意味を考えさせてくれる………

映画の撮影が終わり、東京に帰ってきた僕は、苛々していた。それは他のメンバ−も一緒だった。常に死が隣にあった空間から解放された僕達は、現実の生活に適応出来なくなっていた。まぁ2ヵ月もすれば序々に現実に慣れてはきたんだけど。でも僕は違っていた。映画や舞台の中だけの死の世界だけじゃ、物たんなくなっていた。常に生活の中で生と死を感じていたい。
そこで僕は決心した。老人ホ−ムで働こうと。

僕の選択した特別養護老人ホ−ムとは、痴呆、障害者、寝たきり、すべての老人を収容した施設。色んな時間帯のバイトがあるが、僕が選択したのは苛酷な深夜バイトだった。拘束時間は10時間。1日6500の給料。決して割りのいいバイトとは言えない。現に老人ホ−ムで働くようになって、お金がなくて、何回か1日水だけで過ごす日もあった。でも僕はお金じゃない何かが欲しかった。それは「生きる」とは何かという答えだった。100歳すぎた老人もいた。皆僕の大先輩。ボロボロになってでも生き続けている先輩から、吸収したかった。

生きるとは何かを………

特別養護老人ホ−ムの夜間バイトとは、大まかに言うと、職員のフォロ−の仕事。介護に使った皿やコップを洗い、交換した汚物の付いた紙オムツを捨て、便の付いた布オムツを手で洗い、老人が使うエプロンやオシボリを畳む。そして使ってなくなっている物の補充。これを夜9時から12までに熟す。時間が余れば、清拭と呼ばれるタオル (オムツ交換の時に老人のオシリを拭く物)を巻く。これが結構時間がかかって、とても3時間で全ては熟せない。地下1階を入れて、地上2階の建物は結構広い。消灯時間をすぎて薄明りの中を走り回る。洗濯室は地下1階なので、2階で作業しながら、時間を見て地下に降りる。これを何回か繰り返す。そして12時から朝5時まで仮眠。5時からは各利用者のポ−タブルトイレの掃除。その後各部屋を回り、老人の洗面介助。これが大体の仕事内容だった。直接的に老人と触れ合うのは、洗面介助の時だけ。僕は気合いを入れた。だって次の日にはもう顔を拭く事も出来ないかもしれないから………

1日、1日が戦いだった。洗面介助を拒絶する老人もいる。大声を張り上げ、暴力を振るう老人もいる。オシボリが熱いといって投げ付けられた事もあった。僕はどうすれば皆の顔をきれいにしてあげられるのか考えた。まず2日目の出勤から胸に平仮名で書いたゼッケンを貼った。それは名前を老人と職員に覚えて貰う為だった。正常な老人にはそれは効果があったが、痴呆の老人には、関係ない行動だった。僕は
1ヵ月で6キロ体重が落ちてしまい、寝れない日々が続いた。お金が底をつき、水だけで過ごす日もあった。他のバイトをすればもっとお金が入るだろう。美味しい物も食べれて、いい洋服も着れて、ニコニコ笑っているかもしれない。でも僕はそれが嫌だった。自分に余裕があって他人に優しくするより、自分も限界で、それでも自分を犠牲にしてまで他人に与えることを学びたかった。ホモのHさんもそうだけど、僕の回りには「無償の愛」を他人に与え続けてるカッコイイ人間が多すぎる。それを学びたかった。でも今まで自分の為だけに生きてきた僕が、この「無償の愛」を掴むのは到底無理だった。
そこで、僕がとった行動は………



仮眠時間に仮眠しない事だった(笑)作業的な手順を覚える為にと、老人一人々の今の状態のリサ−チ。唯一触れ合う「洗面介助」に全集中する為、寝る時間を惜しんで反省、予習を繰り返す。初めは怪訝な表情で僕を見ていた大勢の職員さん達も、僕のそんな姿に序々に心を開き始め、話し掛けてくれる様になってきた。嬉しくなった僕は、もう1つのバイトを週1にして、老人ホ−ムのバイトだけに集中した。
働き始めて1ヵ月もすると、僕の体重はドンドン落ちていった。寝ない食べない(正確にはお金がなくて食べれないだけど)は勿論体によくない。案の定僕は老人ホ−ム内で深夜鼻血を出して倒れてしまった。
それでも僕は歯を食いしばり耐えた。ふっと冷静になった時に考えたことがある。「このままホ−ムで働き続けたら、僕は死ぬんじゃないか?」と。でもそれこそが、僕の欲しかった状況。生と死が混在したその空間。人生の大先輩達が、常に僕をオ−ディションする。「お前は今生きているか?」そう問い掛ける。僕はそのオ−ディションに役者として立ち向かう訳にはいかない。僕は一人の人間として立ち向かわなければいけなかった。何故なら、このオ−ディションは、映画や舞台のプロの俳優ではなくて、「人間のプロ」になるオ−ディションだったから。そんな侍達が圧倒的なパワ−で僕にプレッシャ−をかけてくる。それに答える為には、命をかけるしかなかった………。
疲れ果てて帰るバスの中で、僕は運転手がすれ違う時に交わす挨拶をボ−っと見ていた。反対斜線から来るバスの運転手に、手をちょっと挙げて挨拶する行為は、僕に微笑みをくれた。駅に向かう戦いに行くサラリ−マンや学生達。逆行して疲れ果てて歩いて家路に向かう僕は、
そんな姿を見て微笑んでいた。皆、辛い思いをしながらでも、一生懸命何かを守る為に生きている。それが家族だったり、自分のプライドだったり。
僕は心の中で叫んでいた。

「皆、今日1日頑張れ−!」

僕は太陽の光を浴びながら笑っていた。それはある事を確認したから。
それは、「今僕は生きているんだ」という事を……




2ヵ月もすると、利用者の老人にも友達が出来た。Yさん(89歳)
は、いつも僕が洗面介助の時には起きていて、入歯を外したフニャフニャの口で、顔を拭く僕に、「有難う」と言ってくれていた。朝の5時なのに、嫌な顔一つせず、僕に微笑みをくれていたYさん。でも僕は老人ホ−ムの仕事に慣れてしまって、大切な事を忘れてしまっていた。
ある日の事、いつもの様にYさんのいる4人部屋を尋ねると、Yさんの荷物がなかった。僕は愕然とした。Yさんは亡くなっていたのだ。
僕は信じられない光景に笑っていた。
その前の日、僕は時間に追われて、Yさんの顔を食事時間までに拭くことが出来なかった。車椅子に乗せられ、職員さんに連れられて行くYさんに、申し訳なさそうにしている僕に、Yさんは優しい笑顔をくれた。僕はホッとして、その場を去った………
僕は二日酔いでその日の作業的行程をおろそかにしていただけだった。
いつもは間に合う仕事量を、ただゆっくりやっているだけだった。僕は忘れてしまっていた。この人達は、1日、1日、を一生懸命に生きているのだ。明日くる死の準備を、毎日考えながら生きているのだ。僕は仕事が終われば家へ帰り、自由に歩き回り、好きな時に好きなだけ遊んでられる。僕は人間のプロになりにきたのに、これじゃただのロボットだ。Yさんの整頓されたベットを見つめながら、僕は悲しみよりも自分自身に対する怒りで震えていた。

僕は大切な友達の最後に、触れる事すら出来なかった……

1ヵ月の内に、何回もボランティア室に張り出される死者の名前。
その人達すべてに名前がある。親が付けてくれた名前が。僕はいつも指でその字をなぞり、ニコッと笑って一礼していた。Yさんがなくなり、その直後にも親しくしていたKさんが亡くなり、僕の精神状態は
どん底だった。
そんな僕を助けてくれたのが、利用者の人達だった。
1人はMさん(92歳)夜も眠れず痩せこけた僕の顔を触り、
「貴方はよくやってるわ。感謝してるわよ。」って言ってくれた時、僕は悲しみや怒りから解放されていった。
Mさんは家族もいなく、下半身麻痺で、いつもベットに横になっていた。意識はしっかりしていて、力強い口調でいつも故郷の事を話してくれていた。本が好きで、2人で新選組の話で盛り上がったりもした。この元気をくれたMさんも、今の状態は最悪だった。突然足が折れてしまい、それが暫らく気ずかないまま過ごし、今医者に通い始めたばかり。自分でも足が少し腫れてるぐらいにしか思っていなかったらしい。でも折れていると知った途端、前向きに治療しようと頑張っていた。もう2度と動かないと医者にも言われてるその足を、いつかは必ず動かしてやる!その思いで頑張っていた。
僕は感じた。こんな人生の先輩が一生懸命努力して生きているのに、僕は何をやってるんだろう?ここのホ−ムには、まだ生きている老人が70人以上いる。それなのに僕は自分自身に負けて今生きている老人に満足な笑顔を与えられる事が出来ない。これじゃ最低だ。
僕は自分が恥ずかしくなった。

僕に元気を与えてくれたもう1人は、Nさん(98歳)耳が聞こえなく、体も動かないNさんは、僕が洗面介助する時、いつも「ありがとう」と言う。自分の音も認識出来ないのに、何回も何回も声にならない声で「あ、り、がと、う」と言ってくれる。Nさんのベットの近くにはメモ帳とペンが置いてあるんだけど、僕が「有難う」と書くと、更に嬉しそうに「あ、りが、とう」を連発する。僕はずいぶんその笑顔に助けられた。

最後にOさん(92歳)脳溢血で倒れ下半身不随ながら、意識はし
かっりしていて、由緒正しい家柄のお嬢様だっ人。ホ−ム中を走り
回る僕に、上品な笑顔で「ご苦労さまです」といつも言ってくれていた。Yさんが亡くなった次の日、トボトボ歩きながら洗濯物を運んでる僕に話し掛けてくれた。
Oさん「どうしたの?元気ないわね。」
僕  「えぇ、2階のYさんが亡くなられて。」
Oさん「そうねぇ、昨日突然なのよ。」
僕  「何か、やりきれなくて……。」
僕はOさんにすべてを話した。感情を露にし、震える唇で話す僕の音は悲しかった。そんな僕にOさんは優しく話してくれた。
Oさん「そんなに泣かないで。貴方はよくやってくれてるよ。いっつ    も走り回って、元気に話し掛けてくれて、その姿を見て皆元    気になってたのよ。私達は大丈夫。死の準備は出来てるから。    だから死を背負いこまないで。それは誰にでも訪れるものだ    から。だから最後は笑って見送ってあげましょう。」
僕  「………は、い。」
華やかな人生を送っていた時期もあった。でも長く生きると、肉親や周りの友達や知り合いが亡くなっていき、自分独りになる。それ以外にも、自分の子供との関係や、家庭内事情など、様々な理由でここに来る人がいる。Oさんの言葉は、まるで自分に言聞かせる様にも聞こえた。
僕は車椅子に乗っているOさんに抱きついた。唯一動く右手でOさんは背中をポンポン叩いてくれた。

僕はそれからも働き続けた。次第に介護の内側が見えてきたのと同時に、僕の生活は荒れていった。究極の生と死の現場に常にいる為、普通の生活に適応出来なくなっていた。街を歩いてるだけでも街ゆく人達に苛々する。現実と非現実の境目がだんだん分からなくなっていた。
酒を飲むと感情は更に激しくなり、コンビニの前で大喧嘩になった事もあった。原因はただ肩が触れただけなのに………。
あの時は自分自身がほっんと分からなかったなぁ。老人には優しく接
してるのに、その外じゃ喧嘩したり、けっこう汚い事してた。自分の中の善と悪に余りにも向き合いすぎて、自分の器じゃどうする事も出来なかったもんなぁ。そんな時に周りの友達の有り難さを痛切に感じた。看護婦、保母、医者、グル−プホ−ム職員(区の経営ではなく、民間が運営している施設。比較的に軽い痴呆の方が多く、食事を一緒に作るなど、家族的な雰囲気の所が多い。この職員は僕の彼女でもあり、パ−トナ−でもある。この特別老人ホ−ムを紹介してくれたのも彼女。彼女もバイセクシャルである。)皆が福祉や介護の視点から僕を勇気づけてくれた。そしてバイ、レズ、ホモ、の友達は繊細な視点から僕に元気をくれた。その他にも今の狂一の現状を救おうと色々な友達が僕に生きる希望をくれた。一時期、僕の家の前にはまるでお供え物の様に、色々な食物や飲み物が置かれていた。皆お金のない僕に食べさせてやろうという気持ちで。僕のアパ−トの下に住む歌手のFちゃんは繊細なギタ−の音色で僕を癒してくれた。(彼との出会いもユニ−クで、このアパ−トに引っ越してきた当日、あまりにも下に住む人のギタ−の音色が繊細で、それを聞いていた僕は感動してたまらなくなってダッシュで2階から下へ降りて行き、ドアをガンガン叩いて、中に入れてもらい友達になったという人で、今でもお互いに影響を与え合う素晴らしい人です)あと会社員、居酒屋の経営をしている社長、ヤクザ、障害者、風俗産業の店長、ス−パ−のおばちゃん、などの友達から人生の厳しさを教えて貰った。

僕は、独りで生きていなかった。

深い悩みの中から脱出した僕は、自分の中で様々な現実が融合されていくのを感じた。もう僕の中には非現実などなかった。あるのは現実のみ!
僕の目から憎しみが消えた。怒りが消えた。
僕は自分の中に静かに吹く風を感じた…………

特別養護老人ホ−ムで働いた4ヵ月間。僕が一番に掴んだのは、
「生きる事に意味があるのかどうかで悩むのはもうしない」という事だった。生きているだけでもすごい確率。それが生かされているとしても、精一杯、笑顔で生きていこうという強い生の情熱を与えられた。
僕は生き続けます。生きて、生きて、生きまくってやります(笑)

貴方達に出会って、本当に僕は幸せでした。
有難う、老いて美しい人達。

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